美輪明宏、ヨイトマケの唄の意味、長い間放送禁止になっていた理由は?

2019年8月24日




美輪明宏・ヨイトマケの唄の意味

今回はとてもミステリアスで神秘的なオーラをまとった美輪明宏さんの歌う「ヨイトマケの唄」の歌詞の意味を調査してみました。

美輪明宏さんはタレントというイメージが強いと思いますが、元々は歌手から始まっています。

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ヨイトマケの唄とは

1965年7月にリリースされた美輪明宏さんの歌で、作詞作曲も本人がしています。

「ヨイトマケの唄」と言えば、初出場の美輪さんが第63回NHK紅白歌合戦で熱唱し話題を集めました。

私もこれを見て衝撃を受けた一人で、その時は歌詞の意味もわかりませんでしたが、テレビにくぎ付けになり最後まで見た後この歌はなんだ?と思いすぐに調べました。

同じように美輪さんの歌に引き込まれた人も多かったのではないでしょうか。

ヨイトマケの唄の歌詞

歌:美輪明宏
作詞:美輪明宏
作曲:美輪明宏

父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに  エンヤコラ

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が

子供の頃に小学校で
ヨイトマケの子供 きたない子供と
いじめぬかれて はやされて
くやし涙に暮れながら
泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た

姉さんかぶりで 泥にまみれて
日にやけながら 汗を流して
男に混じって ツナを引き
天に向かって 声をあげて
力の限り 唄ってた
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た

なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も忘れ果て
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと言いながら
勉強するよと言いながら

あれから何年経ったことだろう
高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿

何度か僕もぐれかけたけど
やくざな道は踏まずに済んだ
どんなきれいな唄よりも
どんなきれいな声よりも
僕を励ましなぐさめた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ
子どものためなら エンヤコラ

ヨイトマケの唄の意味

美輪明宏・ヨイトマケの唄の意味

主人公

美輪さんの幼少時の友人が主人公で、その友人が母親を思い出し回想する歌です。

「ヨイトマケ」とは

当時の工事現場では、現在のような建設機械がまだ普及しておらず、土を固める際に重量のある槌(つち)を滑車で上下するために数人がかりで綱を引いていました。美輪さんによればその時の掛け声の「よいっと巻け」が語源だそうです。

「ヨイトマケの唄」歌詞の意味

主人公が幼い頃、工事現場で日雇い労働の土方として働いていた、今は亡き母親のことを思い出します。

主人公は小学生のころ、土方で働いていた母親の子供ということで「ヨイトマケの子供」「汚い子供」といっていじめられました。

悔しくて泣きながら家に帰る途中、工事現場で働く母親を見かけました。

真っ黒に日焼けし汗を流し泥だらけになりながら、男たちに混じって大きな掛け声をあげ綱を引く母親の姿を見た時

「母ちゃんに慰めてもらおう」と泣きながら帰ってきた主人公が、貧しい家庭のために毎日懸命に働く母親に心配かけまいと、親孝行して助けようと、もう一度学校へ戻る決断をするのです。

当時、貧しさから抜け出す唯一の方法は、たくさん勉強をしていい学校を出ていい所に就職して一生懸命働くことでした。

そう思った主人公の少年は「勉強するよ」とつぶやきながら学校へ戻っていきました。

それから何年か月日が経ち、大人になった主人公は、あの日の誓い通り一生懸命勉強をして高校、さらに大学を卒業し、戦後日本の高度経済成長の建設ラッシュの中でエンジニアとして働いていました。

時にはぐれそうになった時もあったが、そんな時は母親を思い出し懸命に頑張ってきました。

今ではすっかり機械化された工事現場での昼休みに

「母ちゃんの唄こそ 世界一」

家族のために一生懸命働き苦労を重ね亡くなった母親に思いをはせるのでした。

ヨイトマケの唄ができた背景

この歌を作ったきっかけは?

この歌を作ったきっかけは、ある日炭鉱町の劇場でコンサートをすることになった際、貧しい炭鉱労働者が安い賃金をつぎ込んでチケットを買い、客席を埋め尽くしていたことに衝撃を受けます。

それにもかかわらず、「私にはこの人たちに歌う歌がない」と感じた美輪さんは、労働者を励ます歌を歌いたいと思いこの歌を作ったそうです。

1965年7月にリリースされ40万枚を売上ました。

同性愛者を公言してから人気が低迷していた美輪さんはこの歌をきっかけに再び脚光を浴びるようになります。

放送禁止になっていた理由は?

当時、差別用語として扱われていた「土方」「ヨイトマケ」が歌詞に含まれているとして放送禁止歌に指定され民法ではほとんど放送されなくなります。

この制度は1983年に廃止されるが、その後も影響を受けていたようです。

こうしてこの歌は「伝説の歌」となっていきます。

様々なアーティストにカバーされる

1998年、村上“ポンタ”秀一のアルバム『Welcome To My Life』に泉谷しげるが歌ったカバーバージョンが収録されます。

2000年に『桑田佳祐の音楽寅さん』で桑田さんがこの曲を歌い話題となりました。

その際テロップで「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」との説明が付けられました。

その他にも米良美一、槇原敬之など様々なアーティストたちがこの歌をカバーしています。

まとめ

この歌がリリースされて47年後ようやく、初出場の紅白歌合戦でこの歌を披露し、私を含め今までこの歌を知らなかった人にも知れ渡り大きな反響を得ました。

実はこの歌をリリースした当時も紅白出演のオファーがあったそうですが、当時の紅白では歌手1人に3分という時間制限があり、6分近くのこの歌も大幅に歌詞を省略して歌うことを求められました。

しかし美輪さんは歌詞の省略はできないと主張し、オファーを辞退したそうです。

紅白出場は歌手にとって大きなステータスとなり、紅白出場を夢に掲げる歌手も多少なくないと思います。

しかも当時美輪さんは低迷していた時期で、紅白出場はビッグチャンスだったはずなのですが、かたくなに歌詞の省略を拒んだあたり、この曲にはよほどのこだわりがあったんだろうなと思います。

そんな美輪さんももう80代になりましたが、今後もまだまだ活躍していってほしいですね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。